<← 戻る>

胸腺ガンと闘いながら がん対策基本法 成立に尽力した国会議員

「 ガン患者であることは私と家内の宿命 」

参議院議員 山本孝史さん

「健康365 」 (2007年6月号) 掲載記事

 
 

元気そうに見えても体調は毎日変わります。
明日はどうなるのか想像もつかない。
一日の命の大切さを実感します。


「いらっしゃい」
  イスから立ち上がった民主党の山本孝史議員は、意外に上背がありました。スラリとした立ち姿はダンディそのもの。外見を見るかぎり、彼がガン患者であることを思わせる兆候は何もありません。
  「でも体調は毎日違うんです。明日はどんな状態になっているか、自分でも想像がつかない。それに体調がいいと思っても、いろいろな数値を測ってみるとすごく悪いこともある。これがガンと生きるということなんです」

  山本さんが自らもガン患者であると告白したのは、二〇〇六年五月、参議院本会議での代表質問のときでした。患者の立場から「がん対策基本法」の成立を訴えるその姿は、人々に衝撃を与えました。扇千景議長は、所定の質問時間が過ぎても、山本さんの発言をさえぎろうとはしなかったほどです。

  あれから一年。山本さんは残された時間を、命を刻むようにして生きています。「一日一生、一日一善、一日一仕事」と題された彼のホームページには「朝、目覚める時、『また、一日分の命を与えてもらった』と思うようになった」「どんな小さなことでもいいから、ひとつでいいから、良かったと思えることをしたい。今日は、こんなことをしたと言えるに口を送りたい」と書かれています。

  ガンと正面から向き合う山本さんの、魂の叫びが聞こえてくるようです。

 

妻は医師に「このままでは余命は半年」
といわれても私にはいいませんでした。
自分一人の胸におさめていたのです。

 山本さんにガンが発見されたのは、二〇〇五年の暮れのことでした。
  「私は潰瘍性大腸炎という病気をしたことがあって、年に一度は大腸の内視鏡検査を受けなければいけなかったんです。十二月二十日、地元の大阪に戻ったついでにかかりつけの胃腸科で検査を受けたのですが、翌日電話があって、精密検査を受けてほしいといわれました」

  ガンはその精密検査で発見されました。
  「検査の最中、医師がしきりに首を傾げている。これはヤバイなと思いましたね。CTスキャン(コンピューター断層撮影装置)のフィルムを見たときは、素人目にもはっきりと、肝臓にガンが散らばっているのがわかりました。医師はこんな重大な事実をあっさり知らせてしまって申し訳ないといいましたが、あれだけはっきりフィルムに写ると、もう来るものが来た、と事実を受け止めるしかありませんでしたね」

  帰宅した山本さんは、奥さんのゆきさんにこう告げました。
  「今度の病気はいままでとちょっと違うみたいだ」
  奥さんは黙って聞いていたそうです。かかりつけの胃腸科から専門病院を紹介してもらい、さらに精密検査が行われました。

  「どうやらガンは肝臓が原発ではなく、胸にある胸腺らしいということがわかりました。年末に胸腺の組織を取って検査し、年明け早々、その結果を聞くことになりました」

  正月はすべての予定をキャンセル。山本さん夫婦は祈るような気待ちで診断結果を待ちました。恐れていたとおり病名はガン。それもかなり進行した「胸腺ガン」でした。

  「その待点で、妻は医師から『何も治療をしなければ余命は半年』と聞いていたそうです。でも彼女は、そのことを私にはいいませんでした。私には、政治家としてまだやりたいことがいっぱいある。『余命半年』と聞いて、私がパニックにならないよう、自分一人の胸の内に納めたのです」

  その事実を山本さんはつい最近、打ち明けられたそうです。
  「悪かったね。一人で抱え込ませて」
  奥さんは黙ってうなずいたそうです。
  山本さんがなぜ政治家になったのか、この国をどうしていきたいのか、その熱い思いをいちばんよく知っているのが奥さんでした。だからこそ、闘病で思うような活動ができなくなる山本さんの悔しさを思い、心の整理がつくまで黙っていようと決意したのでしょう。

活動の原点は学生時代のボランティア。
でも世の中を変えていくには限界がある。
政治の力の必要性を感じました。

 奥さんが守ろうとした山本さんの政治への熱い思い、その原点は山本さんの幼いころの体験にあります。
  山本さんは兵庫県芦屋市に生まれました。第二次世界大戦中に一家が疎開していた町です。山本さんが生まれて四ヵ月後、一家は大阪に戻り、現在の大阪市南船場に新居を建てました。しかし山本さんが五歳のとき、悲劇が襲います。

  「僕が外から帰ると、いつもはにぎやかな家に大人が誰もいない。姉だけがいて、兄がトラックにひかれたというんです。夜になって大人たちが布団の四隅を持って戻ってきました。布団の真ん中に兄が寝かされていて、母が泣いている。兄はいちばん奥の部屋に寝かされ、母が兄の足をさすっていたのを覚えています」

  まだ五歳だった山本さんに、死の実感はありませんでした。
  「ただ、その日以来、家族で食卓を囲んでも、いるべき場所に兄がいない。ポッカリあいた寂しさは感じていましたね」

  そして二十歳になったとき、立命館大学の学生だった山本さんに転機が訪れます,交通事故で親を亡くした子供たちを励ます、ボランティア活動の存在を知ったのです。兄を亡くしたあのときの悲しみが、よみがえってきました。

  「兄を失っただけでも、あんなに悲しかったのに、一家の大黒柱である父親を突然失った家族はどんなに悲しく、大変だろうと思いました。それで大阪に『大阪交通遺児を励ます会』を結成し、大学卒業後は遺児たちの進学を支援する交通遺児育英会に入局したんです」

  山本さんやその仲間たちが広げたこの活動は、やがて交通遺児だけでなく、病気や災害で親を亡くした子供たちへの支援活動「あしなが運動」へと発展していきます。

 

ガン患者ががんばっていけるわけは、
夏休み、入学式、旅行など家族と過ごす
節目節目を目標にしているからなんです。

 交通遺児育英会で、山本さんは身を粉にして働きました。遺児たちのために全国を駆け回ったり、政治家に働きかけたりしました。福祉を本格的に勉強するため、二年間アメリカのミシガン州立大学に留学したこともあります。

  四十歳で交通遺児育英会事務局長に就任。奨学金の貸与を交通遺児だけでなく、病気や災害で親を亡くした遺児にも広げるために、監督官庁と激しいやりとりも経験しました。
 
  「しかし、やればやるほど限界も見えてくるんですね。現実的に世の中を変えようと思ったら、やはり政治の中に入って声を上げなければならない。それに、当事者でなければ吐けない言葉があります。世論を盛り上げ、役所を動かしていくには、政治の力が重要です。そう思っていたときに、日本新党を立ち上げたばかりの細川護煕氏に声をかけられ、日本新党から衆議院選に立候補することになったんです」

  山本さんは一九九三年、四十四歳のときに旧大阪四区から立候補して、見事当選。以後、衆議院議員や参議院議員を務め、年金制度や医療改革、介護保険など社会保障問題に積極的に取り組んできました。ライフワークである交通遺児の問題でも活躍しています。しかし二〇〇五年末、無念にもガンが発覚してしまいます。

  「でもガンになって、悪いことばかりじゃありませんよ。私がガンを宣告された後、民主党が『がん対策基本法』を提出しました。機を同じくして、与党からも同じ法案が提出されました。その本会議で私が質問し、与党も賛成して、『がん対策基本法』が可決成立されたんです。先輩たちがガン医療の向上に取り組んできた結果が、この基本法に集約されました。混沌とした状態であっても、何かのきっかけで、渦を巻くようにすべてのことが中心に向かって集まってくることってあるんです」

  山本さんは「国会議員でありながら、ガン患者でもあることは、私の宿命だと思います。それを受け入れていくしかない」といいます。同時にそれは「政治家であり、ガン患者である夫を持った」奥さんの宿命でもあります。

  「私は結婚してからいろいろと病気をして、最後はガンになってしまいました。家内は病気と結婚したようなもの。本当に申し訳なく思っています」 と山本さんはいいますが、奥さんは毅然としてその宿命を受け入れているのでしょう。
 
  いま、山本さんは週一回、抗ガン剤の治療を受けています。
  「なぜガン患者ががんばれるのかといったら、家族の支えがあるからです。子供の入学式に参加したいとか、夏休みに家族旅行に行こうとか、節目節目をとらえて、そこまで生きようとがんばっているんです」

  あとどれくらい自分が生きられるかわからない。綱渡りをするようなギリギリの毎日を、それでも精いっぱい、山本さんは残された課題に取り組んでいます。

  「病気と闘うということは、一つひとつ何かをあきらめていくことです。あれもやりたい、これもやりたいと思うことはたくさん。でもそれは不可能です。残された時間の中で優先順位をつけていくうちに、あきらめなければならないものもあります。それは妻も同じです。だからこそ病気になったら、夫婦が同じ情報を共有し、同じ方向を向いて歩んでいくことが大事なんです」

  ガンは、山本さんに多くのことをあきらめさせたかもしれません。しかしあきらめた先に、ガンにならなければわからなかった、かけがえのない何かを残したことは確かです。