今月のベランダから
2006年3月
 
ヒアシンスハウス
〜立原道造・ひとりの空間〜
さいたま市別所沼公園内
窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。<草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」から>
 
立原道造とヒアシンスハウス
詩人・建築家立原道造(1914-1939)が、週末を過ごすためにデザインし建設を夢見たヒアシンスハウスがさいたま市別所沼公園内に完成し、訪ねてみました。屋根裏部屋のイメージで在宅のときは旗を掲げるつもりだったそうです。

立原は、1937年に別所沼の畔にヒアシンスハウスの建設を構想しましたが、夢は実現することなく、2年後に肺結核が悪化しこの世を去りました。享年24歳8ヶ月。没後65年目の2004年11月に、立原の夢に共感した人たちによって、コッティジ風少家の建設が実現しました。

住宅の機能と快適さを追求した立原が自分のために夢見た居心地のいい空間。それは5坪にも満たない空間でした。西の窓際にベッドが置かれ、上の棚には愛読書とリキュールのボトル。詩人の秘密の部屋を覗いたようでわくわくしました。

「立原道造記念館」(1997年に文京区弥生に開館)の建設に奔走された宮本則子さん(立原道造記念館副館長(館長代理))に案内していただきました。(山本ゆき)
ヒアシンスハウス(HAUS・HYAZINTH)スケッチ

立原は、1934年東京大学建築学科に入学し、3年連続で「辰野賞」を受けました。卒業後は銀座の石本建築事務所に勤め、建築家としても将来を嘱望されていたそうです。立原は、ヒアシンスハウスの設計案を50通りも考えたと、友人宛の手紙に書いています。最終案となった2枚のスケッチがテーブルに置かれていました。

 
ヒアシンスハウス室内
 

左の写真は「ヒアシンスハウスの会」発行のリーフレットからお借りしました。ドアの色、窓枠の色は、立原の好きだった緑灰色だそうです。

西の窓から差し込んでいる午後の光。北側の大きな窓の向こうには公園が広がり、角を挟んで南東側にも窓がありました。木の鎧戸の中央部分には十字形の切り抜きが。眠っているときも月の光や陽の光を求めたのでしょうか。
愛読書とボトルと電燈と
椅子と詩集と

背凭れの高い木製の椅子にも十字形の切り抜きがあり、遊び心を覗わせます。テーブルに置かれた詩集は『萱草に寄す』と『曉と夕の詩』(それぞれソネット=14行詩=10篇を収録)の復刻版、『立原道造詩集』(神保光太郎編・白凰社)、『四季』立原道造追悼号(1939年7月号・四季社刊)の復刻版。


願いは・・・・・・
なぜ、立原は婚約者を残し、病んだ身体を引きずるように、盛岡、長崎へと旅立ったのでしょうか。そして7ヵ月後、死出の旅路へ。

1932年、日本は、満州国建国宣言。戦勝に酔いしれる昭和初期。時代に自分の居場所を見出せなかったのでしょうか。

立原のささやかな願いに胸がしめつけられます。

(左の画讃は、1938年11月26日、長崎への旅の途次、京都で書いたものです。立原はその4ヵ月後にこの世を去りました。写真は、立原道造記念館発行の絵葉書からお借りしました。)


ヒアシンスハウス周辺散歩
立原がハウス建設を夢見た当時は一面が葦原だった別所沼。今ではオシドリや鴨の憩いの場に。ハウス北北東には葉を落としたメタセコイアの並木道が続いていました。

立原道造記念館 展示案内
(東京都文京区弥生2−4−5  TEL 03-5684-8780)

●2006.1.3-3.19 新春企画展
  「立原道造が描いた世界 パステル画を中心として」

立原道造(1914-39年)は、青春の憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳いあげ、堀辰雄らが主宰する 『四季』[第2次]の詩人として活躍しました。また、将来を嘱望された建築家でもあり、東大在学中は辰野賞を3年連続受賞し、浅間山麓に構想した芸術家コロニイや、小住宅・ヒアシンスハウスなどの設計思想は、今日まで語り継がれています。
本展では、立原が少年期から晩年までに描いた絵画(鉛筆画・クレヨン画・水彩画・パステル画・ペン画・油彩画)の秀作から、パステル画を中心として、これらの絵画と同時期に創作された詩稿・建築設 計図、書簡、書籍、遺品等の関連資料を展観することによって、《立原が描いた世界》の一面に、光をあてようと試みます。(案内文より)


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