肝臓がんを生きる落語家・笑福亭松喬師匠の落語と話を聴く 

 
(2013年6月9日)
 

 6月9日、第15回笑福亭松喬(しょうふくてい・しょきょう)一門会が、大阪・天満天神繁昌亭で開催された。山本は大の松喬師匠のファンだった。家が近いこともあって今も親しくお付き合いをさせていただいている。久しぶりに師匠の落語を聴きに繁昌亭に出かけた。

 プログラムでは松喬師匠は最後の大トリ。演題はその時までの「お楽しみ」。2日連続の一門会。ブログで師匠の痩せた姿を拝見いていたので、師匠の体調は大丈夫かと少し、心配した。

 お弟子さん3人の落語の後に師匠が登場。仲入り前の「仲トリ」だ。遠目からも大分痩せておられるのがわかった。まるで仙人のようだった。薄色の夏の着物に羽織はなかった。

 冒頭、師匠は、「大トリは、一番うまい人がやるべき」、と仲トリでの登場のわけを話す。すでに、一番弟子の三喬さんに一門会の大トリを託していた。体調が思わしくなく、「枕での話だけにさせてもらおうかな」と弱々しく話し始めた師匠。場合によってはそれもありそうに思えた。

 治療はうまくいっていて、肝臓の腫瘍は小さくなり、腫瘍マーカーも改善されているという。だが、食欲がない。常に満腹状態。飲み込む力も弱くなり、食事の時間が怖いと言う。朝、食べたと思ったら、昼がやってきて、昼、食べたと思ったら今度は夕食。「食べなければ、食べなければ」と自分に言い聞かせ、嫁のけいこさんからも「食べて、食べて」と言われる。奥さんは、体力をつけてほしいとの一心だが、師匠は、責め立てられるようでつらい。

 「食べないと、落語、できなくなるでしょ」
 「できなくてもいい」

 そんな会話もあったという。

 「自分は適量を食べているつもりでも、嫁の食べる量が多いものだから、いくら食べても嫁が喜んでくれない」

 会場は爆笑の渦。

 「がん性の鬱になり、このまま目が覚めないでほしい、と思うこともある」

 涙が出た。
 新たに生じた師匠の耳の不調。急に痩せて、耳のどこかに隙間ができて、常に、飛行機に乗った時の、あの鼓膜が塞がっているような、ぼわ〜んとした状態だという。

 自分の話している声がまともに認識できない。首を垂れて下を向いている状態を数分続けると少しは楽になると言う。途中、師匠が見台に両腕をついて前かがみになり頭を垂れた。そのまま時間が過ぎていった。場内は水を打ったように静まり返った。固唾を呑んで師匠を見つめる。かなり長く感じられた。それでも1分ぐらいだろうか。ゆっくりと、師匠が顔をあげたときはほっとした。耳の調子が少し楽になったと言って、見台の小拍子を左手に取り、パーンと打って、師匠は落語の世界に観客を誘った。

 ひとこと、ひとこと、ことばを噛みしめながら、絞り出すように語る。余計なことばが削がれ、肝心な言葉だけが残る。何度か聴いたことのある落語だが、こんなに吸い込まれたことはない。時々、大きく見開かれる師匠の目には力がみなぎる。鬼気迫る表情だ。

 江戸の場所に相撲をとりに行って郷里の大阪に戻った関取りに、二人の町人が声をかけ、結果はどうだったかと尋ねる。初日、2日目、3日目、4日目・・・と順に取り口を説明する。町人が「勝ったのか」と身を乗り出すたびに、技を掛け損ねて「負けた」と肩を落とす。師匠のその間の取り方が絶妙だ。テレビなどない時代。相撲好きの人間には、お相撲さんからじかに話を聞くのが楽しみ。郷土の力士として誇りに思いたいのに、勝ち星の話が一つもないまま、噺は終盤を迎える。この関取り、よく名前を変える。最後に変えた名前が「大安売り」。

 「誰にでも負けてやるから」

 めでたく落ちがつき、師匠が深くお辞儀をされ、そのまま緞帳が降りた。


終了後の打ち上げで

 かつて、山本は師匠の噺に「うまいなー」と唸った。きょうの噺を聴いたら何と言うのだろうか。もう、人間の技を越えて、「仙人の噺」だ。私の感想に、間違いなく彼も同意してくれるだろう。

 仲入り後に、二人のお弟子さんの落語を聴いて外に出ると、けいこさんが帰るお客さんを見送っていた。とっくにお帰りになった思っていた師匠はまだ楽屋におられるという。訪ねてみた。

  師匠は、部屋の隅で椅子に腰かけ、後片付けをしているお弟子さんにいろいろと指図をしておられた。

 

 痩せたお姿に、ぐっと胸に来るものがあったが、

  「師匠、すっごくよかったよ。余分な言葉がなく、研ぎ澄まされていて仙人の噺のようだった」と話しかけると、「本当?」、と師匠は、目を輝かせ相好を崩して喜んでくださった。

  「師匠は、目は大丈夫なの? はっきりと観客が見えていたの?」

  耳は不調、でも、観客の反応を目で確かめておられたのでは、と思った。

  「目もあまりよく見えていなかった」と師匠。

  耳の調子も目の調子も悪い。その上、頬がこけて治療中の歯の坐りも悪いのだという。そんな状態でも噺の世界に観客を引き込み笑わせる。抗がん剤治療をしながら仕事をやり遂げる大変さは山本も同じだった。プロフェッショナルであればあるほど、プレッシャーは大きい。楽屋の師匠の表情には、2日間の一門会が成功裏に終了したことへの充実感と安堵感が見て取れた。
 

 近くの店で打ち上げ。師匠が乾杯の音頭。

  「気力はある。来年の一門会の時は、私のがんは治っている」と力強いお言葉。20人余りの参加者から大きな拍手。師匠の耳にガンガン響いているのでは、と私は少し音をセーブし拍手を送った。

 帰りは、師匠の愛車に乗せてもらい、師匠の運転で家まで送ってもらった。

 


師匠とけいこさん

 「ゆきさん、心配しなくても大丈夫よ。師匠は治るから。私、絶対に治ると信じているから」とけいこさん。

 「そうだね。きっと治る」
  転移なし、痛みなし。この状態で快方に向かっていくことを私も信じている。

 ともすれば、流されるだけの一日がどれだけ大切かを、改めて教えてくださった師匠。私の中で気力がまた湧いてくるのを感じた。

  「師匠、ありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね」

 車から降ろしてもらい、ゆっくりと去っていく 二人の車に私は手を振った。