山本孝史の記録
第一章 いのちの政治家(1)
 
第一章 いのちの政治家
 

兄の死、そしてボランティアから政界へ

 
<兄の交通事故死>


 「大阪の船場というど真ん中で皆で暮らしていましたけれども、船場というところは大阪の商人の町なんで、大阪からいろんな商品が全国へ出て行くんですね。今は、スーパーができて流通過程が変わりましたけれども、我が家の右隣りも左隣りも前も、僕らが移り住んだときは普通のお家(うち)だったんだけど、全部運送会社に変わってしまっていて、その近くの問屋さんから全国へ発送する荷物をその業者さんたちが運んでいるというような環境の中に住むことになってしまったわけです。
  その隣りの運送会社のトラックが帰ってきた。兄は小学校から帰ってきて、そしてランドセルを置いて、家の前でちょうど大工さんが来て造作をしてたもんだから、そこで遊んでいたんですね。遊んでいたところに、トラックがバックしてきて後ろ側からひかれて、それで病院に行ったけれども、その日のうちにだめになった。
  夜になって、大人の人たちが布団の4隅を持って、その上に兄が乗っかって家に帰ってきました。一番奥の部屋に寝かされて、母親がずっと兄の足をさすっているんですね。背中から轢かれて、それで足が曲がっている状態だったんだと思います。最後の言葉はちょうどテレビが始まる頃なので、昭和30年のかかりですけれども、「テレビが見たいなあ」と言って兄は亡くなりました。母親はそうやって足をさすっている、父親は「何でこんなところに家を建ててしまったのだろう」と、あるいは、こんな環境の中でずっと住み続けていたということが、自分のその優柔不断さから発したことなんだとずっと自分を責めていたようです。これは、母親が亡くなったときに、父親が書き残した手記の中に、そういうことばがあって、そうか、ずっと父もあれ以来、兄の交通事故のことを自分の責任だと思って生きてきたんだなと思いました。」(あしなが育英会リーダー研修会 2007年7月7日)

 生きたいのに生きられなかった人がいる。私も兄の分まで、人生を2倍生きなければならないと思った。(メールマガジン 蝸牛のつぶやき 2007年7月9日)

 「その日以来、家族で食卓を囲んでも、いるべき場所に兄がいない。ポッカリあいた寂しさは感じていましたね」(健康365 ガン患者であることは私と家内の宿命 2007年6月)

 交通事故のため小学校2年生で夭折した亡兄の50回忌の法要を18日に営みました。父母を初めとして、遺された家族それぞれの人生に大きな影響を与えた兄の死が、50年経った今も、昨日のことのように想い出されます。(蝸牛のつぶやき 2004年1月18日)


<キャンプカウンセラーに、そして交通遺児支援運動へ>

 1968年7月(立命館大学1年) 中学生の時に味わったキャンプの楽しさを後輩にもとの想いから、京都YMCAの琵琶湖サバエキャンプ場でのキャンプカウンセラーに応募。夏休み中、日焼けしながら、お兄さん役を担う。
 1970年(立命館大学3年) 大阪万博開催。身体障害者の介助ボランティアに応募。これがきっかけとなって、大阪ボランティア協会(当時は大阪市南区心斎橋)のボランティアスクールを受講。この大阪ボランティア協会で、全国学生交通遺児育英募金を呼びかけていた秋田大学生の生路さんと運命の出会い。交通遺児作文集「天国にいるお父さま」に感涙。夭折した兄の無念さや、両親の悲しみが一気に胸にあふれた。募金活動の手伝いを頼まれ、10月の交通安全旬間の10日間、梅田花月前で街頭募金に立った。
 10月に、なぜか募金の贈呈式に参加して欲しいとの連絡があり、上京。永野重雄交通遺児育英会会長(日本商工会議所会頭)への贈呈式に列席。玉井義臣氏と運命の出会いをした。(ホームページ 「プロフィール」)

 大学生のとき、いろいろなボランティア活動をしている中で、交通遺児育英募金を手伝い、交通遺児の作文集『天国にいるお父さま』を読んだんです。自分は兄を亡くして、それまでとは、家の中も自分の人生も、ずいぶん変わりましたが、父親や母親を亡くした家庭はどんなに大変だろうと思いました。「大阪交通遺児を励ます会」というのをつくって、その活動に没頭し、卒業後も交通遺児育英会に就職しました。(NPO法人 生と死を考える会 会報 2006年9月30日)


<ボラ協の物置で誕生した「大阪交通遺児を励ます会」>

 あれは、大阪万博が3月から始まった年です。(大阪ボランティア)協会との関わりを調べてみたら、ボランティアスクール初級コースの修了証が出てきた。昭和45年12月の日付で、第18期。僕は中学3年のときから、夏はずっと大阪YMCAのサマーキャンプ(神戸)に参加していた。大学は立命館に行きましたから、大学1年と2年のときはずっと琵琶湖のYMCAのキャンプ場でカウンセラーとして過ごしていました。で、大学3年の春から大阪万博が始まりましたので、車椅子の見学者を介助するボランティアに応募して・・・。あのころは、ほとんど大学に行かんでええ時代(笑)だった。

 70年(昭和45)の10月6日からです。梅田花月の前で10日間募金に立った。それが僕と交通遺児運動との出会いで、その後の僕の人生をほぼ決めた。
 (大阪ボランティア協会の)3畳の物置がシェルター。励ます会の運動の拠点となるとはね。ぼくはどうしようもない物置とばっかり思ってた。・・・9月の終わりぐらいに忘れもしない、僕は一晩そこのシェルターに(募金活動を呼びかけていた秋田大学の学生二人と)一緒に泊まったんです。そこで完全にオルグされた(笑)。それで、交通遺児の作文集を読め、と言われて、純情な私は「なんかせなアカン」と思ってしまった。そこから大阪に交通遺児を励ます会をつくろう、という話になって、ボラ協をベースに70年の12月に「大阪交通遺児を励ます会」ができる。

 学生運動が非常に盛んで、募金は行政の補完じゃないの? 本来は行政がやる仕事なんでは?などとよくいわれたものです。・・・行政の肩代わりをしているのでは?という話になって、いやそう言っても、物事は前に進めへんわけやし、自分らで出来ることをやろうやないか、と。そのあとの交通遺児を励ます会の運動は、一つは募金という現実的な解決を求めるけど、もう一つは「政治が動くその日まで」という方向での要求はちゃんとして行こう、ということで進んだ。(大阪ボランティア協会40年史 2005年11月)


<交通遺児育英会に就職>

 家業を継いで欲しいと願っていた母親も、「やりたいことがあるならそれが一番」と考える父親の姿勢に従い、東京に送り出してくれた。後日、両親そろって上京し、職場を訪ねてくれて、「息子をよろしく」とお願いしてくれたのは嬉しかった。(ホームページ 「プロフィール」)

 私が今手にしております「おとうちゃんをかえせ」と題しました作文集でございますけれども、これは私が大学三年生のときに、大阪で交通遺児を励ます会という会をつくりまして、仲間と一緒に一軒ずつ交通遺児家庭を訪問して、そのお母さん方あるいは交通遺児の子供たちに作文を書いていただいた、それを小冊子にまとめたものでございます。
  以来、この二十五年間、私、財団法人交通遺児育英会の職員として、あるいは事務局長として、あしながおじさんと呼ばれるたくさんの御支援者と一緒に交通遺児の進学を援助してまいりました。おかげさまで、これまでに四万人の交通遺児を高校、大学に進学をさせることができました。(国会議事録  - 衆 - 厚生委員会 - 平成05年11月09日)


<休職してミシガン州立大学に留学>

 育英会から休職を許していただき、玉井先生の導きで留学した米国ミシガン州立大学に到着。大雪に覆われたキャンパスは、クリスマス休暇でさらに静まり返っていた。英語研修を経て、人間科学部で家族社会学を専攻。高齢者福祉や、フィランソロピィ(社会貢献活動)、「生と死」への知見を深めた。マジック・ジョンソンを擁して全米バスケット王者に。春と夏が一緒に来て、すばらしい紅葉の秋が続く、豊かな自然。ひと夏、YMCAのキャンプ場で過ごしたのも楽しい思い出。(ホームページ 「プロフィール」)


<政治家へ>

 「現実的に世の中を変えようと思ったら、やはり政治の中に入って声を上げなければならない。それに、当事者でなければ吐けない言葉があります。世論を盛り上げ、役所を動かしていくには、政治の力が重要です。そう思っていたときに、日本新党を立ち上げたばかりの細川護煕氏に声をかけられ、日本新党から衆議院選に立候補することになったんです」(健康365  ガン患者であることは私と家内の宿命 2007年6月)


<がんが見つかった>

 そしておととしの暮れ、どういうわけか、私にがんが見つかったということです。忙しくしていました。毎年春には健康診断は受けていました。自覚症状は全くありませんでしたが・・・
 
「何でここで僕ががんにならんとあかんねん。僕でのうたって・・・」というのが正直な思いやったけれども、しかし、僕にその矢が当たったというか、「山本、おまえやからこの仕事ができるんや」と「あなたにがん患者の声が、がん患者だけではなくほかの患者さんの、いろんな人の声があなたに託されているのですよ」と言われているような思いがしました。(あしなが育英会リーダー研修会 2007年7月7日)


<2007年7月参議院選挙出馬へ>

 もちろん選挙というのは健康な人でさえもシンドイので、その時になって私の体調が許すのか分かりません。しかし何でもそうなんですが、当事者でないと分からないことがあるんですよね。国を動かそうと思ったら国会に働きかける必要があります。そのとき、議員たちが聴く耳を持ってくれるか分からないし、持ったとしてもやはり当事者の切迫感からは遠いんですね。自分自身の事を振り返っても、そう思います。その点、当事者が国会のなかで直接発言できるというのは大きいです。その期間を、少しでも長くしたいという思いがあります。(Medical Research Information Center (MRIC) メルマガ  2006年9月16日)

 「『先生は希望の星だ』といってくれる患者さんもいると、自分の意思ではやめられない。やれるところまでやろう。命を見つめ大切にする、という仕事をやるチャンスがあるのなら……」(朝日新聞 窓 2007年6月2日)

 (医師に)常に優先順位をつけろと言われてきました。「お前は何をやりたいんや。それを実現するために治療をするんや」と言われ続け、自分の中で何が一番やりたいのかと言われたときに、一昨年は「自分は国会活動がしたい」と言いました。任期満了というところまできました。
 その次何がしたいか。一つのことができたら次のことができる。何か物凄い大病になったからあれもでけへん、これもでけへんというマイナスの引き算やなくって、次はこれができる、あれができるという足し算ができるーーそういう人生があるんやと、あるいは皆がそういう人生が送れるんだと、送れるような社会にしたいんやという思いを何としても届けたいと思っています。・・・やっぱり当事者がおらんとあかんのですよ、国会の中は。でないと、わからへんのです。なんぼ言うても。(家族が)がん患者の人はいっぱいいるんですよ、国会議員の中にも。・・・自分に白羽の矢が当たったのも、「元気やったらな」と思うときもあるけれども、これも神様が見えない手で、「おまえの仕事や」と。(フォーラム 生きるということ 2007年7月6日)


<そして当選>

 「国会に戻って来て、まだ、ここにいるわという不思議な気がした。また仕事ができるというジワッとした喜びがわいてきました」(アエラ 山本議員いのちの闘い 2007年9月3日)

 
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