山本孝史の記録
第一章 いのちの政治家(7)
 

国政ミニ報告

 国会レポート(1993年10月15日〜2002年4月8日)

 7月18日の投票日から3か月余り。この間、私たち日本新党の細川護熙代表が首相に就任して、38年間にわたる自民党政権に代わって連立政権が誕生。土井議長の就任もあって外からみると国会は大きく変身しました。でも、国会の中は依然として、形式主義、権威主義がまかり通っています。(国会レポート第1号 1993年10月15日)

  8月23日、細川首相の初めての所信表明演説で「質実国家をめざします」と表明しました。戦後の日本は経済成長を優先させ、政治も社会もモノ、カネに彩られていました。経済成長が低下した今、経済だけでなく、思想、文化、市民生活でいかに成熟するかが問われています。日本新党は「こころの時代」にふさわしい政策を追求します。(国会レポート第1号 1993年10月15日)

  国会では、議員在職50年で銅像が立つそうです。この1点で選挙に臨んだ候補者もいたと聞きました。また在職25年肖像画を描いてくださるとか。でも、もう掛ける壁がないので倉庫はほこりをかぶっている絵が一杯あるのだそうです。何か変だなぁー。(国会レポート第1号 1993年10月15日)

  11月9日、厚生委員会で、大内厚生大臣の所信表明に対する質疑が行われました。さきがけ日本新党を代表して、私、山本たかしが質問に立ち、@遺族年金や児童扶養手当を満18歳で打ち切りにせず、高校卒業まで支給すること、A高齢者や障害者に配慮した「福祉の街づくり基本法」を制定することの2点に絞って質問しました。(国会レポート第2号 1993年11月15日)

  大内厚生大臣は12月18日、満18歳で支給打ち切りとなっている児童扶養手当を高校卒業時まで支給するよう、次期通常国会で法律を改正すると表明しました。遺族年金についても同様に改正され、実施は平成6年か7年度の予定です。私はこれまで、「交通遺児を励ます会」の活動や交通遺児育英会での業務を通じて、遺族家庭の母親から、「子どもが4月生まれだと、高校3年生になった途端に支給が打ち切りになる。卒業まで11か月もある。何とかなりませんか」と訴えられてきました。そうした声を受け、私も政治に働きかけてきましたが、冷たい返事ばかりでした。「ならば自分が議員となって変えてやろう」と、私に立候補を決意させた理由の一つでもあります。とうとう政治を動かすことができ、感無量です。(国会レポート第2号 1993年11月15日)

  景気対策、政治改革、コメの市場開放と、細川政権は正念場を迎えています。政治改革法案は衆議院での可決後、11月19日に参議院に送られたものの、1か月以上経つのに実質審議はなし。自民党の審議拒否を続ける姿勢はかつての野党そのもの。(国会レポート第3号 1993年12月20日)

  月曜日から金曜日まで、赤坂にある議員宿舎に泊まっています。宿舎から議員会館まで徒歩。歩いている国会議員は珍しいのか、衛視に方に「身分証明書を」と言われることが多く、困ります。顔パスはずっと無理ですね。(国会レポート 1994年元旦特別号)

  深夜の突然の「国民福祉税」構想の発表。「細川さんらしくない」とお叱りの電話をたくさんいただきました。
  細川総理の判断は、「与党側はまとまっている」との誤った情報に基づいていました。今回のシナリオを書いたのは、大蔵省と大蔵大臣を出している新生党だと噂されています。誰であったにしろ、情報ネットワークが機能しなかったのは大問題。そして、与党の政策決定システムの問題。連立与党では、政策や予算、税制改正など、すべて各党代表で構成される「チーム」での討議を基に作られています。しかし、今回の国民福祉税構想は、これらのチームの知らないところで、代表者会議のメンバー(新生・小沢、公明・市川、社会・久保、さきがけ日本新党・園田、民社・米沢)の、そのまた一部の人間が決めてしまったようです。もし本当なら、このルール無視のやり方は見過ごせません。
  細川総理は、小沢氏と武村官房長官の微妙なバランスを操りながら政局運営をしています。「穏健な多党制」を考える細川総理に対して、政界再編を一気に進めてしまおうという勢力が強いことを改めて印象付けた事件でした。(国会レポート号外 1994年2月5日)

  政治改革を成し遂げた細川政権が次に向かうのは「行政改革」です。21世紀に向けて日本社会の再構築が必要です。高齢化社会では様々な福祉サービスが求められますが、その財源をどうするか。また国際社会の変化にも迅速に対応したい。(国会レポート第4号 1994年3月25日)

 さる11月27日、「21世紀への新たなる船出」(山本たかしとあゆむ会・日本新党大阪第4総支部主催)を開催しました。当日は、細川護熙日本新党代表をはじめ、多数の来賓を迎え、300人を超える皆様のご参加を得て盛会のうちに終わることができました。

細川代表挨拶要旨

 山本さんは、日頃からその活動をしっかりと伝えておられるので、皆さんもご存じかと思いますが、山本さんは長い間のボランティア活動を通じて培ってこられた感覚を、国政にしっかりと活かして活躍しておられます。私のもっとも信頼する同志の一人であり、厚生委員会に属するなど、とくに福祉政策の面で頑張っておられるのは心強いことです。

 日本新党結成から2年半たちました。この間の目まぐるしい変化には、政治がつまらないと思っていた方も関心をもたれたのではないかと思います。これからも、もっと政治をおもしろくしていきたい。人々にとって政治が身近なものになり、期待に応えられるように努めていきたいと思います。

 ここ2,3年で様々な変化がありましたが、日本新党が新党ブームの大きなきっかけとなったことは言うまでもありません。口先だけで「政治を変えないと」という人の多い中、荒波に向かって漕ぎ出す小舟のように、勇気をもって船出した山本さんもその一人です。私たちは、55年体制を突き崩し、本格的な変革を起こすための触媒のような役割を果たしたのです。

 歴史を振り返ってみても、秀吉は中世という時代を壊す役割を演じ、家康は次の時代を固めた。大仕事は、初めから終わりまで一人でやろうとすると難しい。今、改革は2ラウンドに入っています。目先の政局の動きばかりに捉われずに、これからあるべき政治の姿を見据えながら、段階的に、目標の的を絞って一つ一つをやり遂げていく実行力が必要です。皆様とともに、山本さんを支えていきながら成し遂げていきたいと念願しています。(国会レポート第4号 1994年3月25日)

 「日本新党」は昨年12月9日をもって解党しました。私は、「新進党」に参加しました。自社さ連立の村山政権は、被爆者援護法や国民年金の改正案審議のときもそうでしたが、「足て二で割る妥協」を繰り返しています。何ら理念がありません。平成7年度の予算編成では、自民党の族議員が復活し、社会党の「ばらまき体質」が露骨に現れました。(国会レポート第7号 1995年1月)