参院選の争点 いのちは大切にされているか〔朝日新聞「月曜コラム」〕

朝日新聞「月曜コラム」 2007年7月16日

朝日新聞「月曜コラム」 2007年7月16日掲載

 12日、天下分け目の参院選がスタート、各党党首が第一声をあげたその夜、東京・新宿駅前の雨の雑踏のなかで、がんと闘いながら比例区に立候補したYさんが妻や支援の人たちに囲まれて第一声をあげた。がん対策や自殺対策、年金、非正規雇用の問題など、静かに心をこめて語るY氏の言葉に耳を傾けながら、こんどの参院選のほんとの争点は何か、私はとつおいつ考えた。

 Yさんは58歳、民主党の現職の参院議員。一昨年暮れ、胸腺にがんを発見、余命半年と宣告された。「がん患者になり、でも1年半、生かされて、私は国会議員の仕事は人々のいのちを守ることと思ったんです」と第一声の演説を始めた。

 Yさんは昨年5月、参院本会議の壇上で「私もがん患者」と告白、がん対策基本法と自殺対策基本法をつくれと訴えた。与野党は心打たれ、協力しあって、二つの議員立法はスピード成立した。死因1位、年間30万人以上ががんで死ぬ。「がんは社会問題。がんになっても安心できる日本をつくりたい」。Yさんは第一声で語りかけた。

 私は黒澤明の名作「生きる」を思い出した。30年間、平凡に勤め上げて「ミイラ」というあだ名の市役所の課長ががんになる。盛り場で遊んでも癒やされない絶望。若い女子職員に励まされ、市民が望みながら棄てられていた公園計画に猛然と取り組む。雪の日、できあがった公園のぶらんこで「命短し、恋せよ乙女」と口ずさみながら死ぬ。

 Yさんの演説は続く。「3年前の参院選も年金、こんどの争点も年金。なんでこんなことになるのか」。そうだなあ、前回の年金保険料未納騒ぎにしろ、こんどの「消えた年金記録」にしろ、行政の実際を把握しないまま日を送ってきた政治家の怠慢をまず反省しなければならない。

 「厚労省のえらい人が高い退職金をもらって天下りするのに、下で働く職員が意欲を持って働けたか。彼らはゴミ、彼らを一掃することが戦後レジームからの脱却だと安倍さんは言う。年金の問題をそんな扱い方していいのか」とYさん。

 そうだなあ、野党は国民の年金不安を「与野党逆転」に結び付けようとし、与党は「親方日の丸、働かない労働組合」を印象付けて防戦する。ともに政治戦略に力が入りすぎ、年金で老後をつなぐ人々の「いのち」への思いは感じとれない。自民党マニフェストの公約155項目の1番目は「新憲法制定の推進」である。年金問題を繕って参院選をくぐり抜ければ「のどもとすぎれば憲法改正」ということになりかねない。

 参院選公示前の6日、「生きるということ」というフォーラムが都内で開かれた。福祉ジャーナリスト大熊由紀子さん、乳がん女性のリーダー俵萌子さん、在宅ケアに取り組む医師山崎章郎さんらが「がんイコールリタイアではない」「がん患者はサポートしてくれる周りの人々との交流の中に生きる意味を発見する」など語り合った。借金の保証人になった父が自殺した悲しみを、その娘が語った。Yさんが立ち、「生きるって何だろう。月並みだけれど、人間らしく生きる、普通に暮らしたい、最後まで人間の尊厳をもって生きるということではないか。それを守るのが政治の責任。だから、戦争はしてはいけない」と結んだ。

 柳沢伯夫厚労相の「女性は産む機械」発言も、久間章生防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言も、共通するのは「いのち」の営みを軽んずる感覚である。人々を「上」から見下ろしてあれこれ詮議し、「下」を差配する感覚である。

 イラクから自衛隊が「1人も殺さず、殺されずに」撤退してきてしまえば、人道援助の行方には急に無関心になる。戦時の沖縄で日本軍の命令で住民が集団自決した歴史を教科書から消し去って、沖縄県議会の全会一致の抗議は意に介さない。米下院外交委員会が、目本軍の従軍慰安婦への謝罪を求める決議案を圧倒的多数で可決したのを無反応にやりすごす。これらのできごともまた、「いのち」の痛みを感じているとは思われない点で共通する。いったい日本の政治はどうなってしまったのだろう。私が接した、いまはほとんど亡くなってしまった自民党の政治家は、戦争体験と戦後の飢餓を経ているせいか、もっと「いのち」への思いやりを持っていたように思った。

 Yさんが演説する前を、たくさんの若者たちがちらっと目をやるだけで通り過ぎていく。ひとりの青年がYさんに近づいて話しかけた。「いったい消費税はどうなるのでしよう。ぼくは月18万円の収入で家賃が4万円。正杜員ではないからいつ解雇されるかもしれない。ぼくたちはずーっと未来がないんですよ」。Yさんは答える。「私たち団塊の世代は、きょうの生活よりあしたはよくなると信じていたからなあ」

 Yさんは気を取り直してもう一度演説する。「労働の規制緩和で若い人の職場が不安定になってしまった。若者が未来に希望を持てる杜会にしなければ」

 こんどの参院選の争焦は、年金であり、教育であり、憲法であり、消費税であり、主張する外交であり、「戦後レジームからの脱却」であり、「美しい国」であるかもしれない。だが、その奥底にあるほんとの争点は、「いのちを大切にすること」から出発しているかどうかということなんだなと私も思った。

 Yさんとは、山本孝史さん。第一声が終わって、酸素吸入チューブをつけて去る。新宿の雑踏は、若者たちで膨れ上がっていく。

ポリティカ にっぽん 早野 透 (本社コラムニスト)