江戸時代の医師・門屋養安の日記から大阪を見る 茶谷十六氏の講演
大阪市・ドーンセンター
門屋養安(1792-1873)は、秋田県・雄勝町(おがちまち)の院内(いんない)銀山のお抱え医師。院内銀山は「天保の盛り山」として年間1000貫の銀を産出し、全国生産量の60~80%を占めていました。
十代半ばに地下400mで銀の採掘にあたる鉱山衆の実働は10年。ほとんどが硅肺病(よろけ病)になり40歳まで生きる人は稀。32歳で「初老の祝い」をしたといいいます。
日本一の銀山には、江戸から歌舞伎、大坂からは浄瑠璃芸人が来て、連日大賑わい。大坂商人も薬などの物資を運び往来していました。一大産業都市・消費都市・文化都市だった院内や秋田県には、上方の影響が今もあちこちに残っています。1
医師として銀山町住人の病気の治療と健康管理にあたった養安先生は、戊辰戦争で官軍側についた秋田佐竹藩が勝利したときも戦いの勝ち負けには頓着せず「家族が無事でよかった」と。3月に劇団・わらび座が、ミュージカル「よろけ養安」の大阪公演。(山本 ゆき)