NEWSワンダーランド生出演

左から坂崎さん、山本、里見さん
左から坂崎さん、山本、里見さん
里見まさとさんと坂崎優子さんがパーソナリティを務めるラジオ大阪「NEWSワンダーランド」に生出演しました。

私は初めてお二人にお会いしましたが、打ち合わせの時から真剣に僕の話を聞いてくださり、すぐに打ち解けることができました。本番の25分のトークでは、政治家を志したきっかけ、がん宣告を受けたときの気持ち、国会でがん告白をした理由、がん対策基本法などについて話しました。最後にがん患者へのメッセージも送らせていただきました。

里見さんは、途中で涙ぐまれ、優しい方だなと思いました。アシスタントの坂崎さんのフォローは見事で二人の息のあったリードで僕も自分の思いを素直に話すことができました。

番組の途中で、妻が2年目にしてがんを再発したというリスナーから、今の日本のがん医療の問題点を指摘するファックスをいただきました。リアルタイムでの反応に出演して本当によかったと思っています。

最後に、里見さんと坂崎さんから「体を大事にしながら、仕事をがんばってください」と 激励をいただきました。ありがとうございました。
(詳細は次のとおりです)

2006年9月4日「ワンダーランドの目」より

 今日は、「ガンと闘う政治家」と題して、参議院議員の山本孝史(たかし)さんにお越し頂いてお話しをお伺いしました。
 山本議員は学生時代の交通遺児支援活動に始まり、議員になってからは、薬害エイズや臓器移植など「命」の問題にこだわってこられました。
 昨年12月に自らががんに侵されていることがわかり、今まで病気にかかった人の身になって考えてきたようで、実はわかっていなかったことが多かったと感じたそうです。
 国のがん対策も、自身ががんになって初めて、その不備が見えるようになったと言います。厚生労働省は医者や学者の意見だけで方針を決め、肝心の患者の声が生かされてこなかったと。
 10年後には二人に一人はがんで亡くなるとも言われています。がん対策基本法案は成立したとは言え、山本議員にはまだまだやってもらわなくてはいけないことがたくさんあります。どうぞお体を労わりながら、長く活動して頂きたい、そう心から願います。ご出演ありがとうございました。

概略: NEWSワンダーランド まさとの目「がんと闘う政治家」

――山本孝史さん、ようこそおいでいただきました。

こんにちは。

――スタートは日本新党で衆院2期、そして、現在は民主党になっていますが参議院議員5年目ですね。山本さんは、交通遺児支援のために本当に尽力されてきました。なぜならばといいますと、小さいときお兄さんを亡くされているんですよね。

僕が子供のとき、家の周りは運送業者ばかりで、兄が学校から帰ってきて家の前で遊んでいたらバックしてきたトラックに轢かれてなくなりました。

――山本さんは幼稚園児だったそうですが、お父さんとお母さんの悲しみが・・・

父は何でこんな所に家を建てたんだろうと悔やんでいましたし、母は、ずっと兄ちゃんの身体をさすっていました。亡くなってからは毎晩お経を詠んで悲しみをこらえていた姿を覚えています。一人の人間が急にいなくなる。家の中がそこだけぽっかりと穴が空いているみたいな感じがあって、小さいながらもそのときの寂しさ悲しさは忘れられません。

――不幸は突如にやってきますね。数秒ずれていたら「危なかった」ですんでいたかもしれません。政治家を志されたのはこのことが大きく影響したのですか?

実際は、大学生になってからです。交通遺児の子供たちの進学の夢をかなえるための全国一斉の初めての募金がありました。大阪に来ていた秋田大学の学生さんに「一緒にやらないか」と誘われて、梅田の花月の前で10日間募金に立ちました。そのときに手渡された本が子供たちの作文集「天国にいるお父さま」で、それを読んでふと兄貴が亡くなったときのことを思い出しました。子供たちの作文と夫を失くした母親の手記も載っていましたが、母親の気持ち、夢や可能性を途中で断ち切られる虚しさなど感じ、「交通事故なら減らせる、ゼロにならなくても限りなく減らせるはず」と思って活動をしました。「政治がもっとやることがあるはず、自分の思いを政治の中で訴えていきたい」と思いました。

―― ご自分が今度、病いと闘われるわけですが。5月22日の参議院本会議での質問で透き通った拍手をもらいましたね。野次はなく、このような光景は昨今ないことで大変印象に残っています。ラジオをお聞きの皆さんも「あっ、あのときの先生かな」と思っておられると思いますが、どのように感じましたか?

持ち時間15分の質問時間でしたが、オーバーしました。扇千景議長がふつうは「もう時間ですよ」と言って止めるんですが、終わるまでじっと待っていてくださいました。与野党問わず拍手をしてくれたということは、がんで亡くなる人、がんで苦しんでいる人たちを何とかせねばとの思いを議場の国会議員が共有してくれたから拍手をしてくれたと思います。

――昨年末に病気がわかって、それまでずっと公表されなかったわけですよね。親戚にも話されなかったということですが。当然、本人はガタッと、夫唱婦随とはいえ、奥様とも弱られたところも当然あると思います。これではいかんと思いながら、頑張らねば、なんとかしなければとの葛藤もあったと思いますがその辺はどうですか?

見つかったときは検査の写真を見せられて、もう、事実を目の前に突きつけられた状態でした。逃げられないので、不思議ですけど、わりと冷静に受け止められました。内心「えらいこっちゃ」と思ったけれど逃げられないというのが現実でした。その次に思ったのは、自分の任期があと1年半残っている。その間、生きていなければ仕事ができないということでした。そのために、治療をどこで受けるか。大阪か東京か。そして、治療を受けたら自分はどうなるのか、その辺の情報を頭に入れたいと思いました。本を買って読んだり、インターネットで情報を集めながら「いったいこの先自分はどうなっていくのだろうか」と不安になりました。最初の治療をうけながら、「どこまで生かしてもらえるのだろうか」というのが一番の思いでした。

――調べられて、あまりにも治療の格差、受け皿のある病院、そうでない病院があるということをはじめて知ったということですか。

本当に謝らなければなりません。平成5年から国会議員をやってきて、医療とか年金、福祉の問題、薬害エイズとか肝炎とかも子供たちの難病についてもなんとかせねばとの思いで取り組んできましたが、がんについて、こんなに患者数が多く新聞等でも問題になっているのに、意外と自分は知らなかったのです。自分が当事者になって調べてみると、治療成績の違い、まともに治療を受けていない患者が多いこと、病院間でも治療方法が違うといことがわかってきました。救われる命がいっぱいあるのにこの領域でも失われている。それではいけないーーそこから本格的に勉強を始めました。

―― 以前から3人に1人はがんでなくなるといわれてきました。10年先には2人に1人とも言われています。がん対策基本法の話や何とかしようという話は以前からあったのですか?

いや、ここ2年ぐらいの話です。実は、大阪の三浦先生という医師の方がご自分もがん患者で、外国で使われている薬が日本では使えないということで、何とかしようと懸命に取り組まれました。去年の5月に大阪で患者大集会があって、その辺からだんだん変わってきました。しんどいけれども、患者自らが先頭に立って動いたからようやく動き始めたのです。三浦先生も、一緒にやっておられた佐藤さんも残念ながら亡くなられました。そこへ降って湧いて出てきたのが僕です。がん患者でしかも国会議員で、病気のことも国のこともわかっているのだから「あんたに後頼むで」と言われた感じです。去年の12月20日に三浦先生が亡くなられて、その頃に僕のがんも見つかっているのです。無言のうちにバトンを渡されたような気がしています。どこまでできるかわかりませんが「今度はあんたの番や」といわれたと自分では受け止めています。

―― 交通遺児のことや、目立たない他の議員が動きたくないところでずっと頑張ってこられた山本さんに何で病いがいくんやろなあと・・・。神様がいてるんかな・・・

神様がやっぱり「あんた、この仕事やらんとあかんのやで」と僕にその役割くれはったんと違います?

―― そうとしか思えませんね。山本さんならできるだろうと神様が試練を与えられた・・・

逆に言うと仕事をしている間はきっと命をつないでくれはるやろう、もう仕事せいへんようになったら、はよう呼んでまうで」と言われている気がします。

―― 頑張りがあって「がん対策基本法」は一応成立しました。それでもお上のやることは時間がかかることで、来年の4月からの施行ですか? しかし、よう、早期で通りましたね?

はい。よう、通ったと思います。6月1日から与野党が協議し始めて、実質の国会の閉会日は6月16日ですから、衆参の委員会と本会議でそれぞれ通さなければならないので、その間に合意ができて法律ができるのは奇跡的です。関係していた役所の人たちも裏で働いてくれていた人たちも「今国会あかんやろ」と思っていたと後で言っておりました。 

―― これだけ多くの人ががんにかかって亡くなっていかれる、新しい治療法が開発されたとか聞くのですが、不備がたくさんあるんですね。初めて知りました。がん対策基本法でこれからどうなりますか?

今度の法律のポイントの一つは、「がん対策推進協議会」が設けられたことです。がん患者、医療従事者、学識経験者の三者構成になっています。これまで厚生省が決めるときは、医者と学識経験者で相談して決めるのが普通のパターンでしたが、今度はそこに患者あるいは家族が入ります。がんを経験した、あるいは今闘っている患者が話し合いの場に入っていって「先生、こんな問題がありますよ。ここはどうしてくれはるんですか。」と患者自身が発言することによって、これからの厚生省のがん対策の施策、あるいはがんだけではなくほかの病気も含めてもっと患者に近いところで政策が決まり、患者主役の医療になっていくきっかけになると思います。

―― 病気のことを一番よく知っているのは患者さん自身ですものね。

そうなんです。患者が何を欲しているのか、どういう情報がほしいのか、今、治療現場でどういうことで悩んでいるのか、どういう不満を持っているのか。そういうことが公けに出てくることで、皆が「じゃこうしたらいいのではないか」という話になる。そのきっかけを作るということになります。劇的に変わりません。医者を養成するにも10年はかかります。すぐには変わらないけれども大きな一歩を踏み出すことになると確信しています。

――100点満点で生きている人はあまりいません。病いを抱えている人が大勢います。国が、もう少し優しいかったらなと思っている人も多いと思います。そういう人たちに、山本さんたちが生の声でやってくれることで、以前よりは少しでもよくなったと思ってくれる方が増えるのではないでしょうか。C型肝炎のことでも、国は優しくないですよね。また裁判ですね。この国には、優しい者はおらんのかいなというところがあるのですが。

その立場になってみなければわからないというのが、残念ながら人間の能力の限界か心が狭いからかありますね。でも、役所の人たちにもう少しわかってほしいと思います。がんの人も肝炎の人も、他の病気に向き合っている人のこともわかってほしいと思います。僕もわかってなかったところが多かったのです。抗がん剤治療で髪の毛が抜けると、すれ違う人はすぐ、頭に目が行く。たぶん、障害者の人たちもそういう視線を受けてはるんやろと思ったり、抗がん剤投与や血液検査で何回も腕に針を刺すけれども、透析患者さんもそういう状況に追い込まれているわけです。当事者になってみなければわからないところがあることは、残念ながら事実です。今回、自分ががん患者となってその立場にあるので国会の中で声をあげていく、意外とがんという病気は知られていない。国会議員も知っていない。どんな治療があるのか、何が問題なのか。ですから、自分を例えにしながら「こんな治療がある。この場合はこうしたほうが治りがいい」とか、来年7月までの任期の中で、何回でも国会でそういう話をしたい。自分を例えにすればわかりやすいと思うのでこれからそんな思いで国会で仕事をしていきたい。

――胃など全摘されても、後でまたがんが出てくることもありますね。

再発もあるので、検査を続けながら経過を診る必要があります。でも、「がんにかかったらもうあかんねん」ということでは絶対にありません。人間には寿命があり逃げられないのは事実です。寿命が手前にあるのか、少し向こうにあるのか誰にもわかりません。人間は必ず死ぬし、元気な人でも一歩外に出たらどうなるかわからないのです。がん患者になって、わりと近いところに死があるのだろうという思いの中で、毎日の時間をどれだけ充実させていくのか。人は延命治療と言うけれど、たとえば、その2、3ヶ月の間に、子供の入学式に出られたり、家族と楽しい思い出を作ることができたり、仕事で一つ成し遂げられたり、やれることがまだまだあるのです。がんになったからといって、そこで諦めないで、そこからまた一つの人生が始まり、新しいことができるのです。最初僕も落ち込みましたが、前を向いて上を向いて元気を出して生きていこう、次の目標をもう一つ作ろう、一日の中で一つ何かをしようと思えば、人生が変わると思います。そういう時間が少しでも長くなるように政治家としてがん対策基本法を足場に一生懸命に頑張りたいと思います。

――多くのがん患者の方が、どれだけ山本さんの答弁に勇気付けられたか推察できます。今後はどのへんを目指して政治家としてやっていきたいと思っていますか?

僕はずっと人生のなかで「生命」の大切さを実感してきたので、しっかりと生命を守れる政治を目指していきたいと思います。来年の選挙は自分の体力とか、あるいは神様が「もっと続けるように」と言ってくださるのかどうかわかりません。まずは、やらなければならないことがたくさんあるのでそれを一つずつこなしていきたいと思います。

――まず、ご自分の体を大事にされながら頑張ってください。扇千景さんのようにもっと時間をとりたいのですが、残念ながらこの辺で閉めさせていただきます。ありがとうございました。