謝辞
本日は、夫・山本孝史の告別式にこのようにたくさんの方々にご参列いただき誠にありがとうございます。
山本は、2005年12月22日にがん告知を受け、ちょうど2年後の昨年12月22日にこの世を去りました。胸の真ん中にある胸腺にがんができ、すでに肺・肝臓に転移しており、今の医療では治ることのないステージ4の進行がんと診断されました。医師からは「治療しなければ余命半年」と告げられ、常に死を意識しながら、がん患者の国会議員として2年の月日を懸命に生きました。
手術ができず、抗がん剤治療の道しかありませんでした。抗がん剤による倦怠感や食欲不振の上に痛みもありましたが、それぞれの症状に対処する薬を服用しながら、国会での仕事を続けました。
しかし、昨年7月の参議院選挙後には、ものを食べると激しく咳き込むため、食べ物がのどを通りにくくなり、8月末に、24時間点滴で栄養を摂取する中心静脈栄養を始めることにし、そのために入院しました。1週間ほどで退院する予定でしたが、なかなか体力が回復せず、10月には脳への転移も見つかり、その後も、新たにいろいろな症状が現れ、病状は悪化の一途を辿りました。早く、国会に復帰したいと、左手で点滴棒を押し、右手でポータブルの酸素を引きながら、病院の廊下で歩行練習を繰り返していたのですが、そのうち、歩くことも辛くなりました。結局、亡くなるまで病院を出ることができませんでした。
がん告知を受けてからは、「長く生きることではなく、いかに生きるかが問題だ」と悟り、副作用の少ない日は、以前にもまして仕事に精を出し、自分がやりかけていた自殺対策、中国残留邦人の自立支援や在外被爆者支援問題を完結させようと努力していました。日々の政治・行政の中で人の命が守られることを常に願っている人でした。
参議院選挙後は、ほとんど国会に出ることはできませんでしたが、がん患者の国会議員として、政治と病気の両方を通して知りえた日本のがん医療の問題について、本を執筆しました。時間との競争の中で、今、自分が書かねば、次に続く人が一から勉強しなければならない、なんとしてでも生きているうちに書いておきたいと、多くの人の協力を得て、病院で完成させることができました。
亡くなる直前に見本版が病室に届けられました。すでに眠っている時間が多かったのですが、「本ができたんだよ。孝史の本だよ」と呼びかけると、目を開けじっと見つめてうなずきました。私は、彼の手を握りながら、本を読んであげました。自分が命を削りながら執筆した本が世に出ることを確め、そして、日本のがん医療が、ひいては日本の医療全体が向上し、本当に患者のための医療が提供されることを願いながら、その2日後に静かに息をひきとりました。
山本は本当に大阪が好きでした。どんなに大阪に帰りたかったことでしょうか。昨年の今頃は、主治医の平岩正樹先生に「大阪で死にたい」ともらし、先生から「人は死に場所を選べない。」と諭されました。「人間は気球に乗っているようなもの。ああしたい、こうしたいという願望をたくさんぶら下げていると重さで落下してしまう。一つ一つ切り離して本当に大切なものだけを残したら楽に生きられる」と教えていただき、やがて「大阪で死にたい」と口にすることはなくなりました。しかし、亡くなる2週間ほど前に「僕が死んだら僕を大阪に連れて行って、大阪で告別式をやってほしい」と言いました。大阪でお世話になった方々と最後のお別れをしたかったのです。このような形でしか皆さんにお会いすることができないのは残念ですが、この新年の忙しい時期にもかかわらず、多くの方にお別れに駆けつけていただき本当に喜んでいると思います。
きょうは、全国各地からも山本と親交のあった方々や同僚議員の方々など大勢お別れに来てくださっています。遠いところを本当にありがとうございました。
花の好きな人でした。きょうは、このように皆様からの献花で花壇を作っていただき、今頃は、大変喜んでいると思います。2年間の闘病生活の後半は壮絶でしたが、自分のやりかけていた仕事をすべて完結させ、穏やかな気持ちで旅立ちました。どうか、皆様もご安心なさってください。
山本は、生前に、遠からず訪れる皆様との永遠の別れを覚悟し、皆様への「感謝のことば」を記しておりました。受付でお受け取りいただきましたご会葬御礼の封筒の中に入れさせていただきました。
最後に、山本孝史が生前に皆様から賜りましたご厚情に親族一同、心より感謝申し上げます。本日は、本当にありがとうございました。
山本ゆき