山本孝史のプロフィール
財団法人交通遺児育英会時代
1972年(昭和47年)
- 3月
- 立命館大学産業社会学部を卒業。ゼミ担当の野久尾徳美教授から「実践活動も大事」との“お墨付き”をいただいて、在学中は励ます会の活動に没頭していた。
- 4月
- 財団法人交通遺児育英会に就職(実は4月1日の入局式前から呼び出され、育英会の機関紙創刊号の編集を徹夜でしていた)。
家業を継いで欲しいと願っていた母親も、「やりたいことがあるならそれが一番」と考える父親の姿勢に従い、東京に送り出してくれた。後日、両親そろって上京し、職場を訪ねてくれて、「息子をよろしく」とお願いしてくれたのは嬉しかった。
1973年(昭和48年)
- 5月
- 物質至上主義や大量消費時代に警鐘を鳴らす社会運動を展開。玉井義臣氏が提唱した「ユックリズム」は流行語にもなった。「あしながさん」
「ゆっくり歩こう運動」や、6月からは夏休みを利用して遺児らが「一台の自転車“赤とんぼ号”を乗り継いでの日本一周」(原案は私の発案)などを次々と企画し、実施した。世直し運動でもあった。
1975年(昭和50年)
- 5月1日
- 母、英子(えいこ)死去(享年61歳)。乳がんの再発だった。父は最期まで献身的に看病した。1977年(昭和52年)6月、父は井上悦子と婚姻。新しい人生をスタートさせた。
1978年(昭和53年)
- 12月30日
- 育英会から休職を許していただき、玉井先生の導きで留学した米国ミシガン州立大学に到着。大雪に覆われたキャンパスは、クリスマス休暇でさらに静まり返っていた。
英語研修を経て、人間科学部で家族社会学を専攻。高齢者福祉や、フィランソロピィ(社会貢献活動)、「生と死」への知見を深めた。
マジック・ジョンソンを擁して全米バスケット王者に。春と夏が一緒に来て、すばらしい紅葉の秋が続く、豊かな自然。ひと夏、YMCAのキャンプ場で過ごしたのも楽しい思い出。
1981年(昭和56年)
- 6月
- 米国ミシガン州立大学大学院修士課程を修了。
帰国後、交通遺児育英会に復職。
返還課長、総務課長として事務の電算化を推進。連日の残業からようやく解放された。
1982年(昭和57年)
- 3月14日
- ゆきと結婚。浪速男と秋田美人のなれそめは一通の手紙だった。
病弱というわけではないが、様々な病気に見舞われ「病気と結婚したようなもの」と思っているかもしれない。国会議員への転出も予想だにしなかったことだろう。
明治神宮の境内で外人が花嫁を見て、「How beautiful ・・・!」と言っているのが聞こえた。
1990年(平成2年)
- 4月
- 交通遺児育英会事務局長に就任。「あしながさん」の温かい心に支えられ、奨学金貸与の対象を交通遺児だけに限らず、災害や病気、自殺等での遺児にも拡げたいと願う事務局側と、反対姿勢の監督官庁との間での長い戦いの渦中にあった。
1993年(平成5年)
- 6月
- 衆議院選挙立候補のため退職。実は、前年秋から玉井先生を通じて細川護熙氏の日本新党から立候補しないかとお話があった。「政治が動く、その日まで」を合言葉に交通遺児救済運動を展開したが、政治は動かない。では、自らが動かそうと思ったのだが、なかなか決意できず、同僚の藤村修代議士の選挙事務所を手伝っていた。告示直前となって立候補を決断。
何でも勝手に決めてくる息子のやり方に、父は無関心を装っていたが、知人・友人に積極的に応援を依頼してくれた。