余命半年からの人生。がんイコール、リタイアではない

手記表紙夫・山本たかしにがんが見つかってから1年半になろうとしています。

「治療しなければ余命半年」の宣告を受けての闘病と国会議員としての活動の日々。その間、感じたことわかったことなどを夫が手記にしました。

一人でも多くの方に読んでいただき、山本たかしの「いのちのメッセージ」を受けとめていただけたら幸甚です。

2007年6月17日 山本ゆき

がん患者としての日々、その想い

朝、目覚めると
「今日も、一日分の命をいただいた」と
思うようになりました。

 健康な時と違って、パッとは起き上がれません。目を開けたり、眠りに戻ったり、しばらく行きつ戻りつしながら、頭と身体を眠りの世界から現実に呼び戻します。激しく咳き込むこともあります。胸腺から肺に散らばったがんのためです。一日に二回飲む痛み止めの薬を飲み、妻の作る人参&りんごのフレッシュジュースを飲んで、身体がようやく動き始めます。
 「こんな身体でこれから先、国会の仕事ができるのか。でも、自分でなければできない仕事があるぞ」。こんな自問自答を繰り返しています。でも不思議なことに、今日の予定を確認して、「今日は、この仕事をしよう」と決めると、徐々に気力が出てくるのです。

僕のがん

 僕のがんは最初、胸の真ん中の肋骨の後ろ側にある胸腺にできて、そこから肺と肝臓に転移しました。自覚症状がまったくないまま、一昨年末に見つかった時、すでにその状態でした。がんの進行度を表す「期」では第4期、その先がありませんので、世間では「末期がん」と呼ばれています。もっとも、4期であっても治らないわけではありません。また「末期」の時間は、いくらでも延びていきますので、「末期」という表現も正しくはありません。とは言いながらも、極めて厳しい状況から治療が始まりました。
 治療法は、僕のように全身にがん細胞がまわっていると、手術も放射線治療も無理で抗がん剤しかありませんでした。効く抗がん剤、効かない抗がん剤があり、効いた抗がん剤でもしばらくすると、がんに耐性ができて使えなくなります。また、新しい抗がん剤や薬に挑戦することになります。だんだんと選択肢が少なくなり、細い道が、さらに細くなっていきます。
 副作用は、使用する抗がん剤によって異なりますが、多かれ少なかれ出てきます。感染症を引き起こす原因となる白血球の減少、貧血、むかつき、倦怠感、手足のしびれ、便秘、脱毛と、一通り体験してきました。医師からは、それぞれの副作用に対処する薬をもらっています。抗がん剤によって副作用の出方が異なりますし、その副作用の程度も日によって違うので、副作用を抑える薬の量は自分でコントロールします。
 抗がん剤治療を続けていると体調や気分に波があり、心も定まらず、何事においても決心したかと思うと迷いのどん底に落ちる、この繰り返しです。
 がんが大きくなったためか、肝臓が肥大して肺や心臓を圧迫し、心拍数が130 を超えたときもあります。そんな時は、数メートル歩いただけで息切れがします。血液中の酸素量が少ないときは、在宅酸素のお世話になります。

がんでも働き続ける、国会議員としての想い

がんだからこそ、僕だからこそ

 がん発見時に、余命半年と宣告されましたが、治療のおかげで1年半生きてきました。単に病院のベッドで天井を見つめているだけの延命ではありません。
 がんと共存しながら、今の僕だからこそ以前にもまして、命を守るための仕事ができる、僕にしかできない仕事があると思っています。そして、がん患者の国会議員として、がん対策基本法の成立を後押しし、協議会を傍聴し、国会質疑に臨んできました。新たに得た患者の視点を加えて、医療政策を検証し、社会に改善を訴えることもできたと思っています。

見えない力に導かれて「いのちを守る」

 僕は、運命というものを感じます。国会議員になったのも、そして、命をないがしろにするような国の政策に歯止めをかけ、薬害や自殺などの予防対策を樹立するような仕事が自分の手元にまわってくるのも、何か見えない力で、「これは山本さん、あなたの仕事です」と言われているような気がします。
 命を守るのは政治家の仕事です。救えるのに救えなかった命、助けられるのに助けられなかった命がいっぱいあります。交通事故、薬害、自殺、難病、十分に治療を受けられずにこの世を去ったがん患者たち。いずれも政治の出番です。
 がん患者となったのも、しかも治療が難しい進行がん患者となったのも、僕に「いのちを守る」役割が与えられているからだと、今は思っています。

いろんな動きの接点

 昨年の5月22日、僕はスクランブル交差点の真ん中に立っていました。がん患者の先輩たちや家族の活動、それに対する行政の動き、十分な治療が受けられなかったがん患者たちの無念の思いなどが交差する場所に、がん患者となった国会議員の僕がいました。
 参議院本会議場で「自分もがん患者である」ことを公表し、がん対策基本法の早期成立を訴えました。「政治家が病気を告白するのは、政治生命の危機」と言われましたが、僕にはそんなことは関係ありません。この機会を逃すと、がん対策基本法の成立はずっと遅れるという自分なりの見通しと、がん対策基本法の成立によって、がん医療や、さらには日本の医療水準が向上し、「救えるいのちは救うべき」と普段から思っていたことが実現すると思ったからに過ぎません。
 そして、多くの方の熱意と行動が寄り集まって、がん対策基本法は異例のスピードで成立しました。やはりここでも、見えない力を感じます。

がん患者の視点

 がん患者になって、初めて気がついたこと、感じたことを政策に結びつけてきました。がん対策の推進には、がん患者や家族などの当事者の視点が必要と感じ、がん対策基本法の成案を得るための与野党協議の場で、患者・家族等の代表も入った「がん対策推進協議会」の設置を提案しました。18 人の委員で構成される協議会には、患者・家族等の代表として4人の委員が加わり、活発に意見を述べています。大きな成果でした。
 1年半前のがん発見時と今とでは、がんの進行とともに、自分のなかで、モノの受け止め方も、感じ方も、政策立案時の視点も微妙に変わってきました。
 今は、がんとか難病、障がい者、高齢者など、グループ化して政策を考えるのではなく、がんでも他の病気でも治らない患者、障がい者の方でも重複の障害を持っている人や重度の人、高齢者のなかでも虚弱で経済的にも困窮し、いちばん困っている人たちにこそ、政治の光が当たらなければならないと思うようになりました。
 そして僕らが目指すべきは、「誰もが人間らしく生き、普通に暮らすことのできる社会」だと明確に示すことができるようになりました。

がん患者イコール、リタイアではない

 身体が辛いときは、「もう無理をしなくてもいいじゃないか」という声が聞こえて、リタイアしたいと思うこともあります。しかし、当事者が動かねば行政は全く動かないことを、大学3年の時、「大阪交通遺児を励ます会」を結成し、それからの25 年間かかわった交通遺児母子家庭への支援運動で痛感しています。
 当事者自身の訴える力に勝るものはありません。病を抱えた当事者が、病気と闘いながら理不尽な行政とも闘わなければならないのは、政治の怠慢以外のなにものでもありません。
 そんな政治状況を生み出している国会議員の一人として責任を感じますが、やはり「政治を動かすのは、市民や社会の力」だというのも真理です。
 だから僕は、まだまだリタイアできません。がん患者当事者として、国会のなかで、また国会のなかから外に向かって訴える力をもっています。今後とも、がん対策基本法が、がん医療の質的向上のみならず、医療全体のあり方を見直し、さらには、社会の片隅に押しやられじっと耐えている人々を救うことにつながっていくのかどうか、注視していかなければなりません。またそうした方向に導いていかなければならないと思っています。その役目をしっかりと果たさなければ、がん患者の先輩たちに、彼岸へ行ってから叱られそうな気がします。

自殺も減らせる

 8年連続で3万人を超えている自殺者も、救えるはずの命です。これまで政府は、自殺予防をうつ病対策として行なってきました。しかし、自死遺児の支援を行っているあしなが育英会の玉井義臣会長から、「自殺を個人的問題としている間は、自殺者は減らない。社会問題として捉えなければならない」と教わりました。党内での勉強会を重ね、自殺予防に取り組む市民団体とも連携しながら、「自殺対策基本法」に取り組みました。
 昨年の5月22日の参院本会議で、がん対策基本法と同時に自殺対策基本法の成立も訴え、成立にこぎつけました。4年がかりの仕事が結実し、内閣府に自殺対策の専門部局が新設されました。「自殺総合対策大綱」もまとまり、年間3万人を越える自殺者を今後10年間に20%以上少なくすることを目標に、各種の対策が動き始めました。社会全体で命を守る輪が、またひとつ広がりました。
 自分ががん患者になったことで、「救える命を救おう」「誰もが人間らしく生き、普通に暮らせる社会にしよう」との訴えに重みが増したことは確かです。

民主主義を守りたい

 もう一つ、僕は民主主義を守りたいと心から思っています。命を守るためです。お国のためにといって命を散らさねばならない状況を再び作り出してはなりません。今の、数の力で突き進む政治や歴史を語り継ぐことを軽視する社会を見ていると、戦後60年以上を経た日本に民主主義は育たなかったと思わざるをえません。
 利他主義の薄さが、日本社会での民間活動の弱さにもつながっています。絶望感が強くなります。でも、何かやらないと、何も動かないことも事実です。
 民主主義を守ること――これも僕に課せられた仕事です。

いのちを見つめ、大切にする「いのちの政策」。
それを、やれるところまで、やります。
僕は、与えられた命を生き抜きます。

 抗がん剤治療で生み出された時間を何に使うのか。残された人生の貴重な1ページ、1ページに何を書き込むのか。日本のお粗末ながん医療の向上のために、命を投げ打ってギリギリまで闘って亡くなった先輩患者に見習って、自分もやらねばと奮起してきました。がん対策のみならず、これまで続けてきた「いのちの政策」をさらに展開しようと、精一杯に取り組んできました。ステージ4のがん患者としては働き過ぎて、最近、体力が落ちてきました。
 健康であったらと悔しく思うことも度々ですが、がんにならなければ、いまのような仕事ぶりも、生活もありません。治療を続けていますし、少しずつ体力を回復し、良くなることを信じて日々生活しています。
 「進行がん患者でもできることはたくさんある」、「いい仕事がいっぱいできる」というメッセージを、進行がん患者や難病患者、障がい者、虚弱な高齢者など、国の政策や社会から「役に立たない。お荷物だ」と見なされがちな人たちに代わって、社会に届けたいと思っています。
 「先生は希望の星です」と言ってくださる患者さんがおられると、自分から国会議員の仕事をやめることはできません。やれるところまでやろうと思います。いのちを見つめ、いのちを大切にするという仕事は僕に与えられた使命です。天命なのでしょう。それを自分から捨てることはできません。
 僕は、自らの人生を生き抜きます。

2007年6月15日記

孝史へ、山本ゆき

 友人が私に言いました。
 「胸に病を抱える人は、胸に悲しみを長く抱えてきた人だ」と。

 悲しみでぽっかり空いた胸の空洞に、がんが宿ったということなのでしょうか。孝史の胸の真ん中の胸腺に宿ったがんは、7歳でトラックに命を奪われた兄の無念さ、交通遺児母子家庭の支援活動やあしなが活動で出会った多くの子どもたちと母親の悲しみと苦悩、国会内で先頭に立って真相解明に取り組んだ、薬害エイズの被害者の悔しさの塊なのでしょうか。
 国に裏切られ、医師に人間扱いされなかった薬害エイズ事件の被害者たちの苦しみ、絶望を思い、絶対に許せないと、膨大な資料を読み込んでいましたね。そして、まだ「未公開ファイル」があることや、加熱製剤の発売後も非加熱製剤が販売されていたことをも突き止めました。この薬害エイズから孝史の国会での「いのちの政策」が始まりましたね。

 13年間の国会活動で取り組んだのは、年金、医療、介護の社会保障制度をメインに、臓器移植、自殺対策、難病対策、被爆者支援、障がい者支援、中国残留孤児支援、ホームレス対策、交通事故問題、そしてがん対策などいのちを守る政策でした。一昨年の12月にがんが見つかってから1年半、抗がん剤治療を受けながら、時には健康な時以上に、国会で仕事をしていましたね。「命を削る」とは、このことかと何度はらはらしたことでしょう。孝史の訴えが実って、がん対策基本法も制定され、国のがん対策も少しずつ前進していくように思えます。

 国が、がん対策に向け動き始めたのはいいのですが、自分の身体をあまり顧みなかった孝史にとうとう「ドクターストップ」がかかりました。
 5月下旬の治療日。体力消耗が激しく、主治医に「危機的状況」と言われ、もう抗がん剤の治療はできないと通告されました。それを機に、やっとあなたは自分の身体を思いやり、自分のいのちを見つめるようになりましたね。

 それでも、6月12日に、厚生労働委員会で質問に立ちました。疼痛緩和のための医療用麻薬メサドンの早期承認を求め、厚労省から積極的に取り組むとの回答を得ました。今、使われているモルヒネなどの十分の一の値段で、海外では広く使われている薬です。これが承認されたら、痛み止め薬の選択肢が増えて、喜ぶ患者さんがたくさんおられるでしょう。痛みさえコントロールできたら、普通の生活が送れるがん患者さんはたくさんいます。本当にいい仕事をしましたね。
 「年金の山本」の存在を示した、年金記録消失問題に関する質問では「わかりやすくて聞き入ってしまった」と、委員会室で写真を撮っていた記者さん。その話を聞いて、「そういうことばの一つひとつが励ましになるよ」と孝史は嬉しそうでした。

 でも、今は、体力を回復させる――それ以上の仕事はありません。
 「時間がない、今やらねばもうできなくなる」との思いに駆り立てられていたような日々。自分の人生を完結させようとしていたようにも思えます。孝史の人生はまだまだ進行形です。いのちのバトンも持ったままです。渡す相手もまだ見つかっていません。ちょっと動くと心臓がバグバグ鼓動して苦しそうだけれど、酸素吸入だってあるし、抗がん剤の副作用にも悩まされるけれど、孝史は元気です。

 孝史の願い――「僕は、治らないと医者から言われたけれど、治りたい。生きたい。生きて仕事がしたい。標準治療のあとは緩和ケアだけの日本のがん医療を変えていきたい」
 孝史とえにし(縁)を結んだ人たちが、孝史の想いに共感し活動してくれています。あなたのメッセージを全国の人たちに伝える手伝いをしてくれています。もう、一人で頑張ろうとしないでください。私にも長く伴走させてくださいね。

2007年6月15日記

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