vol.15 2004年3月〜4月

3月21日(日)号

 3月9日、参議院での2004年度予算案審議が始まり、トップバッターとして質問に立ちました。

 質問が終わると、いつもそうですが、「ああ聞けば良かった」とか、「こう切り返せば良かった」と、自己嫌悪に陥ります。今回も、「小泉首相と全閣僚が出席しているし、予算案審議の入り口だから、幅広に質問しなければいけない」とか、「NHKテレビの中継もあるから、しっかり小泉内閣を追及しなければならない」とか、さまざまにプレッシャーを感じて、ちょっと力みすぎたと反省しています。

 質問のポイントは、小泉内閣は(1)アメリカ追従の外交姿勢とアジア外交の軽視を改めること、(2)財政再建への道筋と社会保障財源の確保策を明示すること、でした。その他に、北海道警、静岡県警などで相次いで発覚した不正経理疑惑や、児童虐待防止の緊急措置、自殺防止の国家的プロジェクトの立ち上げについての見解を求めました。

アジア外交の方向性が定まっていない小泉内閣

 一国の総理が、どのような歴史観や人生観を持っているかは、その内閣の進む道(すなわち日本を導く方向性)を決める上で、極めて重要な要素だと思います。小泉純一郎とは、どんな人物なのかを知りたい。戦没学徒への熱い想いを持つ総理に、その発端は何かと尋ねました。「学生時代に最も感動した本が『あゝ同期の桜』。私が読んだ本の中で最も感動した本だ」そうです。

 橋本元総理が、学生時代に(施政権返還前の)沖縄を訪ね、壮絶な地上戦が展開されたことを受けて、その後、政治家として沖縄に特別の想いを寄せていることや、軍国少年だった自分を振り返って、二度と戦争はしてはいけないと考えた故梶山代議士などの多くの政治家、「人権問題の解決に武力を持って、一国を解放するというのは時代錯誤」と喝破した後藤田元副総裁などと比べると、小泉総理は、戦没学徒への思いを美徳とするところで思考を停止させてしまっているのではないでしょうか。国民の自己犠牲を美化するのは、政治家として正しいのか。自己犠牲を出さない政治を目指すべきではないのでしょうか。総理としての資質が問われています。

 靖国参拝によって日中首脳外交が途絶えていることに関しても、「多くの戦没者に哀悼の誠をささげる。日本国民の一人としても自然な感情ではないか。決して外国との付き合いを悪くするために、という気持ちはない」と答えるだけで、アジア外交の方向性を示すまでには至りませんでした。

 アメリカのイラク占領統治についても、もっと広い視野をもって、中近東の政治的また社会的安定、石油資源の世界的な共有などについて、議論をする必要性を痛感します。

 哲学的な深い思索や、大きな構想力が求められているのに、小泉総理は、場当たり的な対応に終始しているように思えてなりません。政治が薄くなっていくことを、危機感を持って、反省しなければなりません。

参院改革の行方

 3月14日には、NHKの日曜討論に出演。参院での予算案審議が始まると、「各党代表に聞く」と題して、参議院の各党代表が出席するのだそうです。

 焦点の一つが、参院改革。一院制の議論が広まるなか、自民党の青木参院幹事長は、「二院制は憲法で決められている非常に大事な制度。衆院と違った参院をわかりやすく示されなければならない」と述べ、一院制よりも参院の独自性強化を目指すべきだとの考えを強調。私も、「日本の風土の中で一院制というと、多数派が少数派を無視して強引に進んでしまう可能性もある」ことを指摘し、慎重な議論を求めました。

 ところで、現実の問題として考えなければいけないことがあります。それは定数の問題です(違憲との意見も出ているところですが)。

 衆院の定数が480名であるのに対して、参議院は、この夏の選挙が終わると242名になります。衆院の半分です。その上、3年に一度の参院選挙の年になると、半分の議員が改選になり、新年早々から選挙体制に入ります。

 したがって、衆院の4分の1の人員で、衆院と同じように法案審議を行なうというのが実態です。こうした体制で十分な審議をと言っても、物理的にも無理です。

 決算重視を打ち出している参議院ですから、法案審議に濃淡をつけて時間を確保しながら、道路や空港などの特別会計、補助金の実態などを細かく決算の立場からチェックする。そのために、日本版のGAO(米国会計検査院)を設立し、参院の行政監視機能を強化する。そうした参院改革の方向性が求められています。

3月28日(日)号

 年金法案の審議に資するため、27日から高知県須崎市にある「グリーンピア土佐横浪」に泊りがけで行ってきました。ホテルとしての存続を願う地元の皆さん、年金基金から譲渡を受けて管理・運営にあたる予定の須崎市の市長さんなどから、ご意見を伺いました。その報告は、別途「訪問記」として、ホームページに掲載します。

 さて、年金法案の衆議院での審議が近づいています。

 5年前の年金法案の審議は、自民党と自由党の連立政権内で、法案のとりまとめが遅れたため、法案の国会提出は7月末でした。今回は、すでに政府案は提出されていますし、予算委員会でも、年金積立金の流用問題を中心に、活発な論戦が展開されてきました。年金運用基金(前身は年金福祉事業団)の理事長なども参考人として国会によんで、審議が行なわれました。その意味で、前回審議と少し違った展開をしています。そして何よりの問題は、参議院選挙があるため、国会の閉会時期が決まっていることです。

 政府・与党は、早期の審議を求めていますが、年金資金の運用に関する衆議院の「予備的調査」の結果が、まだまとまっていませんので、審議の前提となる政府側の資料提出が遅れています。早期のとりまとめを求めています。

 また、小泉総理は、「年金一元化は重要な議論。民主党とも協議したい」と述べました。その真意は、「政府案を採決後に、協議しましょう」ということです。
 民主党は、政府案の撤回を求めていますから、総理のこの提案は受け入れられません。しかも、議論が必要だと言うのであれば、「法案は部分的な手直し法案である」ことを、先ず認めるべきです。総理、どうですか?

 民主党は、自らが考える「将来の年金制度」を対案として示しながら、国会の論戦を深めて、国民の理解と協力を求めたいと考えています。

保険料か、税か。

 坂口力厚生労働相は14日、三重県久居市で講演し、「(年金財源の一部に)消費税の導入を求める案もあるが、(モデル世帯の給付水準で)現役世代の半分を確保しようとすると消費税を3%ぐらい上げなくてはいけない。負担してもらうのが保険料の形か、消費税の形か、だけの話だ」と指摘したそうです。

 民主党が、保険料の引き上げを抑えて、消費税で年金給付財源を補うことを提案していることへの反論なのでしょう。ここで考えなければいけないことは、「負担するのが保険料か、消費税の形か、だけの話」なのか、どうかです。

 保険料の場合は、現役世代だけが負担しますが、消費税だと、年金受給者も含めてすべての世代が負担します。負担の構造が変わるのです。決して「だけの話」では、ありません。
 積立方式で始まった年金制度は、その後、賦課方式(後世代が給付財源を負担する方式)に変わりました。消費税方式は、保険料負担の軽かった年金受給世代のうち、高額年金受給者を中心に、追加的に保険料の負担をお願いし、現役世代の負担の軽減を図る狙いがあります。年金の世代間格差を是正する効果もあります。ぜひ、議論したい点です。

国民負担が軽くなる?

 坂口大臣は、さらに、「保険料だと半分は企業が負担するが、消費税だと個人が負担する方が多くなる。プラス、マイナスはあるが、保険料の方が(国民にとっての)負担は少なくなると思う」と述べたそうです。これも不思議な言い方です。

 年金の給付総額が変わらないとの前提の下では、保険料と税はトレードオフの関係になります。すなわち、保険料での負担が増えれば、税は減り、税が増えれば、保険料は減ります。したがって、「どっちの方が、国民負担が少ない」とは言えません。正確な発言をお願いしたいものです。

年金などの社会保障財源をどのように確保するのか

 年金給付財源の確保策は、年金改革の本質です。
 年金や医療などの保険料引き上げは、社会保険料控除額の増額となり、しいては所得税の課税対象額が減って、税収減につながると考えられます。谷垣禎一財務相も「控除の在り方を通じて、税収にマイナスの影響はあり得るだろう」との認識を示しました。
 竹中大臣や坂口大臣は、「年金保険料の引き上げによる、景気や雇用への影響は少ない」と強気の答弁で押し通しましたが、これも、首をかしげるところです。

 私は、年金保険料にしろ、税金にしろ、社会保障給付額の増額は避けられない事態を前にして、政府として責任のある方向性を示すよう求めています。
 ところで「赤旗」には、「結局、消費税増税路線では自民も民主も同じです。民主党からは『消費税をどうするかという議論はやらなければいけない。ところが(首相が)上げないといったことで消費税議論が止まっている』(山本孝史議員、九日の参院予算委)とけしかける声も聞かれます」と書かれました。

 私は、消費税の引き上げを求めている訳でも、けしかけている訳でもありません。社会保障財政の実態を国民に説明し、どのようにして財源を確保するかの議論を求めているのです。消費税は今後の日本にとって、避けられない議論だと思うからです。

今週の「なんでやねん?!」

* 参院予算委で、「改正で(5年に一度の年金改正や国会審議の前提となる)財政再計算がなくなる。もう何もやることがないというのが厚労省の考え方だ」と指摘したことに対して、首相は「少子化、出生率、経済の変化がある。大きな変化が来た場合には、どういう対応をしたらいいかという見直しはあり得る」と答えました。これは正直でした。坂口大臣のように「これで100年、年金は安心」とは、絶対に言えないのですから。

4月4日(日)号

 先週に続いて29日も、社会保険庁が年金や健康保険の保険料で建設した施設を見学。今回は、駒場エミナース、ペアーレ新宿です。

 結婚式場やカルチャーセンターを経営することは、その施設の設置主体である年金関連財団の運営費を稼ぐためには必要であっても、年金加入者の福祉増進につながるとは、理解しがたいものがあります。

 そして何よりの驚きは、「欠損金の補填や建物の修繕が必要になった時は、年金保険料から貰う」という運営が、何らの疑問も持たれずに続けられてきたことです。ホテルである駒場エミナースを運営する国民年金福祉協会連合会の常務理事は、「最近、コンサルタントに相談し、経営改善の指南を受けた。その結果、人件費が高いと指摘された」と説明しました。施設開設から25年が経過して、初めての「意識改革」のようです。

 「保険料で運営しても良い事業があるとすれば、それは何か。その内容を精査する必要がある」。施設見学に参加した議員の共通認識です。

今週の「なんでやねん?!」

* ボールペンを自宅に忘れて来たので、上京の途中でコンビニへ。レジで店員が、「景品が当たりました!」。ペットボトルのお茶をゲット。「今週はツキがあるかな」と喜んでいたら、空港行きの高速道路が大渋滞で、予定便に乗り遅れました。「今週は荒れ模様かな?」。嫌な予感は的中して、年金法案は衆院審議の入り口で大荒れです。年金の「一元化」は、被用者年金だけではなく、国民年金も含めての「一元化」が当初からの課題です。坂口大臣、勝手に「一元化」の範囲を狭めたらダメですよ。

* 江角マキコさんの国民年金未納問題。保険料を払ったとして申告すれば、支払いをチェックすることなく控除を認める税務署の怠慢こそ、追及されるべきです。税理士が作成した納税申告書は、きっと無審査なのですね。同じ所得データに基づいて、課税や保険料の賦課を行なっているのです。税務行政と保険料徴収事務の断絶状態を解消し、両者の業務を「一元化」することは、納税や保険料納付の公正・公平さの確保、事務の合理化からして当然です。

* 開業以来の1年間に、32件もの同種事故が起きていた森ビルの回転扉。全国のビルで同様の事故が起きていたにもかかわらず、製造元で、事故情報が「一元化」されることもなく、事故防止策に繋がりませんでした。「安全基準を国に決めてもらわないとダメだ」という声が多いのは、あまりに情けない! お上に頼る前に、製造業者も、設置者も、自分たちがやるべきことは何であったのかを、反省するべきです。規則で縛らないといけないことばかりの国なんて、ごめんです。

* この4月3日、聖徳太子の「17条の憲法」制定1400年を迎えました。熟塾(原田彰子代表)の催事で四天王寺へ。17条憲法は、いわば公務員法(倫理法)です。17条には、「それ事を独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と与(とも)によろしく論(あげつら)ふべし。」とあります。現代語に訳せば、「重大な政治課題は独断せず、多勢と相談せよ。大事な事に過ちがあってはならないからだ」ということです。年金は重大課題です。小泉さん、坂口さん、1400年前の言葉は、時を超えて今も真理です。

4月11日(日)号

 8日の夜、翌日の衆院本会議での民主党の年金法案審議に備えて、民主党の政策調査会室に詰めていました。そこに、イラクでの邦人人質事件のニュース速報が飛び込んできました。すぐに民主党の対策本部を立ち上げ、国連での勤務経験もある藤田幸久衆議院議員を、急遽ヨルダンに派遣しました。以降、党本部で情報収集と分析にあたっています。

 藤田議員からは、アルジャジーラテレビだけでなく、現地のテレビ局やラジオ局を通じて、3人がイラクのために活動していることや、家族をはじめ、日本のすべての国民が解放を願っていることを放送するように働きかけるなど、事態打開に向けて行動しているとの報告があり、その後も、定期的に電話での連絡が入っています。

 今朝も「24時間以内に解放する」との報道があり、政府は「信憑性が高い情報だ」としていることから、解放されたとの連絡を待っている状態です。しかし、情報が極めて限られており、また様々な情報が錯綜するなかで、慎重かつ冷静な対応が求められると感じています。

 民主党は、自衛隊の派遣に反対しましたが、現時点において撤退することは、却って事態を複雑にするとの判断をしています。イラク戦争の大義の欠如、米国などのイラク占領統治の失敗など、指摘するべき問題点は多くありますが、それらは人質が解放された後に議論すべきでしょう。6月30日とされている主権移譲の実現に向けて、日本は何をすべきか。今一度、原点に戻って議論する機会を設けたいと考えています。

 ところで、年金法案の審議では、民主党が対案を提出し、与野党の議員が、質問し答弁するという、国会の本来の姿となりました。自民・公明党案でも民主党案でも、一長一短で、どちらかでなければならないとは思いません。互いの欠点を非難しあうだけではなく、どうすれば最善の案が形成されて、国民の年金不信が解消されるのか、議員同士の議論を通じて結論が見えてくればと願っています。

4月18日(日)号

 年金法案の審議日程を巡って、衆院は大混乱。公聴会を開かずに、14年間の保険料引き上げを決めるというのは、あまりに強引。年金法案を、いかなる手段を用いても今国会で成立させ、参議院選挙での争点にしないという与党側の作戦は、国民無視としか表現の仕様がない。

 イラクの邦人人質が解放され安堵するとともに、未だに解放されてない各国の人質の早期解放を求める。

 今回の事件をもとに、今後、国際社会で行動するために、私たち日本人は、そして日本政府は何をすべきか。私なりに考えてみた。

自衛隊の撤退と、人質の解放は切り離して考えるべき問題

 犯人グループが自衛隊の撤退を要求したことも、解放を願う家族が、犯人の要求どおり自衛隊を撤退させるよう政府に求めたことも、当然だった。
 しかし、自衛隊のイラクへの派遣の是非と、人質の解放とは切り離して考えるべき問題だ。犯人側からの撤退要求を呑めば、「脅せば簡単に要求を受け入れる日本」とのイメージを定着させ、「今後、日本はイラク復興に関与しない」とのメッセージとも受け止められかねない。
 私は、自衛隊の派遣は最悪のタイミングでなされたと考えている。現状では満足な活動はできないし、迷彩服姿の自衛隊員が現地の学校を訪問する姿をテレビで見て、強い違和感を覚えたのは私一人ではあるまい。如何に「人道復興支援に来ている」と言っても、アメリカに占領されているイラク人からすれば、いかなる軍隊も、占領軍の一員としか映らない。
 十分な知識や準備のないままに自衛隊を派遣してしまったことは反省しつつ、いかにしてイラクの人々に、日本のイラクとイラク人に対する思いを受け止めてもらえるか。政府としても、自衛隊派遣問題を含めて、具体的な取り組みが求められる。

イラク社会、イスラム文化への理解の浅さを露呈した政府

 この間、日本政府は多方面に働きかけたと思う。しかし、有効打はなかったばかりか、情勢を混乱させたのではないか。最終的には、イラクの聖職者協会の呼びかけに応じた犯人たちが、自らの意思で解放したと受け止める。聖職者が、「日本の外相は、聖職者協会への感謝を口にしなかった」と怒り、後日に2人が解放されたときに、日本の現地大使が感謝状を贈っていたのは、その事実を裏付けている。
 宗教が持つ社会的、政治的な影響力を、政府は軽く見ていた。ここでもイラク人やイラク社会、イスラム文化への理解の浅さが露呈された。国際的活動の基盤には、相手国に関する深い理解が前提となる。

温かい心と、冷静な判断

 政治は温かいもの、国民の心情を受け入れたものでなければならない。一方で政治は、冷静な、時には冷徹な判断を求められる。家族や支援者たちは、「犯人が自衛隊の撤退を要求している」という理由で政府の方針転換を求めた。私は、その心情は理解しつつ、先ずは、退避勧告の出ていた地域に出かけていった軽率な行動を詫び、次いで、アメリカの軍事行動停止を求めるべきではなかったか。
 政府に求めたいことは、家族への思いやりだ。迷惑をかけられたとの気持ちはあっても、情報がテレビを通じて家族に伝わるのではなくて、政府から伝えられたら、家族の受け止め方は変わったと思う。温かい心と、冷静な判断力は、政府や政治家にも、国民にも求められている。

民間レベルであっても、国際的な活動には一層の専門性が必要

 「苦しんでいる人がいる、助けたい」との純粋な思いは尊重するが、自らの行動が、どのような事態を引き起こすかを考えずに行動することは無謀だ。NPOやNGOは、政府と連携、協力する関係にあっても、どんな状況下でも自らの責任で対処することが求められる専門家でなければならない。特に危険地域での活動に従事する場合は、家族も同じ認識を共有することが求められるのではないか。

なぜ大騒ぎになるのか

 人質をとって政治的な要求をするという、卑劣な手段は許されない。しかしながら、今後、国際社会で日本人が活動する機会が増えれば、同様の事件は続くだろう。例え国連の枠組みのなかであっても、また、支援する側に正当な言い分があったとしても、相手側がこちら側の思いを共有するとは限らないからだ。今回の事件で大騒ぎになるのは、こうした事態に対する免疫力が日本人や日本社会にないからではないか。

 こんな風に考えながら、3人の日本人の命を巡る過剰なまでの反応に接して、「日々、世界中で、日本社会のあちらこちらで、守られるべき命が次々と失われている現状を、どう考えたらよいのか」と自問している自分がいる。